思考があちこち

好奇心が止まらない人のゆるい日常

“当たり前”の呪縛に苦しむこと

「それが出来て当たり前」

「当たり前のことがなんで分からないの」

 

当たり前って言葉は、常識を強調するのに便利な表現。でもそれは、ときに人の思考を停止させることにつながる。

 

私は当たり前って言葉は、人に訴えかけるためのものと、人の思考を狭める2通りの使い方があると思っている。

 

例えば前者は、感謝したことに対して「当たり前じゃん」という場面といえば想像しやすいだろうか。

 

「この仕事してくれてたんだね!ありがとう」「当たり前じゃないですか」

「心配してくれてたんだね」「当たり前でしょ!」

 

これは、自分の気持ちを強調したいときや相手を慮ることで使いたくなる表現といえる。

私はこの使い方がとても好きだ。

 

後者は、人を息苦しくする使い方である。

会社を辞めるときは「転職先を見つけてやめるのが当たり前」

結婚適齢期に恋人がいると「結婚の話をして当たり前」

 

「当たり前」って悪い言葉ではないけど、当たり前は、周りの人が決めつけていることもある。

 

そんな当たり前の言葉を浴びせ続けられて生きてきた。周囲に押し付けられる当たり前に溶け込めず、悩みを抱えた経験があるのは私だけではないでしょう。

 

当たり前に生きていくことは果たして幸せなことなのか?そう自問自答して生き続けている。

 

全世界において当たり前という言葉は、無意味。

当たり前が通じないこともある。

だから「当たり前」にとらわれて生きると、当たり前がなくなったときに足元をすくわれるんじゃないだろうか。

当たり前は、なくならないとわからない。