思考があちこち

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性格良し悪しの判断は多様性を阻むのでは?

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人柄を表現するときに「性格が良い」「性格が悪い」って使われるし、昔は自分も使ったことあると思う。人を大まかに分類するのに便利な言葉だ。物事を端的に表現することは嫌いではない。

 

けど、「性格が良いってなに?どう良いの?」「性格悪いって?何を悪いことしたの?」って掘り下げたくなることがある。というかここ数年はそんな具合である。

 

なんでかというと、性格の良し悪しは自分の好き嫌い、合う・合わないと関係ないから。

 

「性格良い」って言われている人も、自分とは波長が合わなくてなんとなく居心地悪い…

「性格が悪い」って言われてる人だけど、ただ発する言葉が刺さるだけ。忖度なくて心地良いかも…

なんて経験、人と関われば色々ある。

 

考えればわかることだけれど、人の性格は良い・悪いで判断できるものではない。

 

とはいえ「性格の良し悪し」はシンプルで伝わりやすいから使ってしまうだろう。言い方を是正しろなんて言わないけど、少し考えてみてほしい。人が判断する「性格の良し悪し」によって相手を色眼鏡で見るようになってしまわないだろうか。

 

「多様性」ってずいぶんと前から言われているけど、「性格の良し悪し」は人柄を二極化しているから多様性とは正反対だと思えなくもない。

 

誰彼の「性格の良し悪し」を判断することに、当の本人は多様性と結びつけて考えないだろうし、多様性を否定する気なんてさらさらないだろう。でもそれが危険かもしれないと思う。無意識のうちに人をカテゴライズしているから。

 

例えばのはなし。

企業理念として「多様性」を掲げる企業が社内で「あの子性格悪い」「あの先輩なら性格いいから許してくれる」なんて会話をしていたらどうだろう。雑談のうちかもしれないが、多様性を謳う企業が蓋を開けてみたらまぁもっと言い方ないのかしら、、ってガッカリするような。

 

とりあえず「多様性」は大事なことだからと表に向けたブランディングはするけど、原動力となる社員=根本はどうなのだろう?ってね。多様性は身近な人から受け入れないと、商談相手などのスケールが大きくなった時に対応できないと思うから。

 

いや、逆に性格は多種多様だから逆に「良い・悪い」のシンプルな二択が求められるのか。自分が育った頃には定着していた表現なので、なんとも言えない。

 

多様性なんてあげたらキリがない問題だけど。多様性を謳うなら、それなりに考えた発言を個々がしていかなきゃ行けないと思うわけで。

 

つまるところ私が言いたいのは、「性格が良い・悪い」って、その人にとってだから。自分が実際に話すとどうかなんてわからない。だから先入観をもって人と接するのは非常にもったいない。

 

でも「性格悪い」には忠告が入っていることもあるから、自分は注意して聞いておくのである。